2012年6月23日土曜日

かわらの町

初めて高浜市に行った。
かわら美術館でやっている『私の八月十五日展』に行ってきた。

展示自体はこじんまりとしたものだったが、作品が文章を踏まえたものが多く
1時間半くらいはいたと思う。
戦争について、あーだこーだと語るのは、正直苦手だ。
知らないことだし、自分の発言に責任が持てなくなるから。

だからこそ、責任とかそういうことがどうでもいいところにあるこの展示は、とても新鮮だった。

主観を基にした展示、主観でしかない展示。ほとんどが漫画家さんの作品だったが、中には
八月十五日に自分がいた風景があまりに殺風景で、絵にする気にならないと、言葉だけを記した人もいた。
もうすぐ、またこの日がくるんだな。


初めて行った高浜市は、不思議な町だった。
美術館までの道も、本当にここ?と思うような道をたどる。
途中、母と娘の親子に話しかけられ、ちょっと立ち話。
どうやら、道は間違えていないようだ。

しかし、歩いていると、どうも口元が緩む。とても、雰囲気が良い町。
さすが瓦の町で、ところどころに瓦やかけらや、煙突みたいなものが落ちてる。
一応、展示っぽくしてあるところもあるんだけど、手作り感満載で、町の雰囲気を顕著に出している。

思わず何度も寄り道をして、10分で到着できる道を30分かけて歩いてしまった。
寄り道して入ったところが家の入口だったり、“電話三十二番”という不思議な表札を見つけたり。
(電話交換の時代の名残・・・?)

もっともっと遠回りをしたら、いくらでも発見のできそうな町だった。
ちょっと歩くと海があったみたいだけど、埋め立て地である高浜市の海は、とても工業的で
人がそこに行くのすら、あまり歓迎的ではない様子だったので(そもそも歩道がなかった)
素直に帰った。

海は今度の休みにとっておこう。


帰りに、明日の父の誕生日の贈り物を探しに栄に行ったが、優柔不断の私は
人の多さにも圧倒され、結局、何も買わずに帰ってしまった。


ちゃんと満足できるものを買って贈ることにしよう。
父の贈り物を買うためだけに遠出をするのも、ありのような気が、最近はしている。



2012年6月16日土曜日

願い。



特別なものはいらない。
自分にとって、大切だから特別になるだけなんだ。


だから、私の大事を、私は大切にしたい。

ただ、それだけだ。



2012年6月11日月曜日

The Americans

昨日ふらっと寄った古本屋の、写真集のコーナーが充実してて大興奮で
そこで流れてた曲が、その最近買ったCDの中の1枚だったりした日には
何だか嬉しくて、無駄に長居したりしてしまう。

本当は別の某本屋に行くつもりが、日曜日のせいで閉まってて、
ドアの前で『休みかよ~』オーラ出してたら誰か鍵あけてくれないかなと思ってたけど
当然そんなこともなく、泣く泣く帰ろうとして、はっと立ち寄ったっていう流れ。

本当の目的でなかった分だけ、逆にうれしかったりする。


本当の目的だった本屋のその名は、ASANO BOOKS。

学生時代に、その本屋の近くで夜勤のアルバイトをしていて、帰りに発見し
疲労困憊だったのにふらりと立ち寄ったことをよく覚えてる。

その当時は写真も映画も、そういったことに今より全然興味がなくて、
ましてや英語なんて、てんでダメだった。
そのうえ、お客さんがほぼ皆無な状態で、そそくさと失礼した気がする。
でも、どう考えてもへんてこな本屋だったからよく覚えてた。


次は土曜日に行こう。
お目当ての本も、きっとあそこならあるような気がしている。
それを見つけたら、休日らしく、その本屋で時間を気にすることなく居座ろう。


CD屋みたいにして、本屋で時間を使うようになっている。
音楽を聴くみたいにして、本を読んだり、写真集を見たりするようになっている。
水が浸透するみたいに、それらを感じてる。

あー。
そんなふうに、そんなふうに。

2012年6月9日土曜日

雨が降ってる。

今、雨が降ってて、たまたまyoutubeでclammbonのRe-雨という曲を見つけて
いろんな雨の日を思い出していた。

雨女という言葉を使いたくはないけど、私の記憶には本当にたくさん雨がある。

2年前の梅雨に、たぶん人生で初めて蛍を見た。
その時私は初めて蛍を知って、愛知県で蛍が見れることに、すごく衝撃を受けて
何より、蛍があんなふうにして光を放つことが、夢みたいだった。

#2公演の夜に、台風が来て大雨が降り、会場にしていた鶴舞公演の奏楽堂は雨漏りがして
みんなでビニールシートをしいたりした。
台風は夜には去って、嘘みたいな青空で、これまた真っ青なビニールシートを乾かした。

沖縄に初めての一人旅をしたときは、5日行って5日とも必ず1回、雨が降った。
もう、傘を使うことがあほらしくなって、傘を全く使っていなかった気がする。
でも、悪い気は全然しなかった。むしろ、たぶん笑ってた。

記憶に雨がついてくることが特別じゃなくなったころから、雨がそんなに嫌いじゃなくなった。
嫌いじゃなくなったというよりは、晴れることに、いろんなことに、あまり期待をしなくなった。
別にそれは、悲観的な感じではなく、重きを置かなくなったという方がしっくりくるくらい。
期待する必要はないと、今でも思う。
でも、雨が降るなら、それを味方につけてしまうような記憶にだって、いくらでもなる。
と、今は思う。

事実、記憶を雨と一緒に過ごすことが多い私には、それを裏付ける要素が、たくさんある。
当然のことだが、結果に過ぎないことなんて山のようにあって、結果の前の、過程に

自分は立ってる。